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編集・発行/日本性教育協会(JASE)

第1章

世界のセクソロジーにおける朝山新一の位置

東 優子

はじめに

 日本で「性教育」という名称が一般的になったのは、1970年代のことである。1970年8月、それまで「純潔教育」を冠していた団体が日本性教育研究会といった名称に変更し、その団体とは別に1972年2月には財団法人日本性教育協会(Japanese Association for Sex Education:以下、JASEとする)が設立された(1)。とくにJASEは、日本初にして唯一の「性に関する法人」としてスタートを切り、文部省主導の「純潔教育」からセクソロジー(性科学)に足場を置く性教育へと転換していく礎となった(広瀬, 2016)。

 朝山新一(大阪市立大学名誉教授=当時)は、そのJASE設立に尽力した中心的存在である。彼は、純潔教育が「男女平等という人間の基本的な思想からかけ離れているために、現代の若者からは、ほとんど見捨てられた存在になっている」(朝山, 1970: 9)と批判し、性教育を基盤とした新しい時代の人間形成が重要であると考え行動した。設立を機に刊行された『現代性教育研究』は、1970 年代以降の日本の「開放的」な性教育の主流言説形成に多大な役割を果たしたとされる(広瀬, 2016)。同機関誌がセクソロジーの最新知見や海外の動向を積極的に伝えたというのも、朝山の存在が大きい。創刊号に掲載された「設立のご挨拶」で「すでに欧米をはじめ世界各国の諸団体、学界との連携も決定し、情報・資料・研究の各分野でわが国を代表する国際的機関としてお役に立ちたい」(日本性教育協会, 1972)と述べられた言葉どおり、朝山は、日本からの参加が「朝山ひとり」(朝山, 1977a: 29)という時代から国際会議に参加する常連だった。「アメリカとヨーロッパにおいて、朝山氏は東洋における唯一の傑出した性研究者として、尊敬を集めていました。性教育や性研究に関する重要な国際会議で、朝山氏を招待しなかったり、彼が出席しなかったものは、ほとんどないといってよい」(ゲブハード, 1979: 68)という。1972年6月にも、JASE常務理事として米国を訪問して現地の性教育関係者と交流している(日本性教育協会, 1981)。

 本章では、「わが国でただひとり国際的なセクソロジスト」(富田, 1981: 42)と呼ばれた朝山の海外との交流に注目し、本人および様々な関係者の「語り」を通して、世界のセクソロジーにおける朝山の位置づけを輪郭づけたい。日本で「開放的な」性教育が推進されようとしていた1970年代は、世界的にも現代セクソロジーが新たな展開を迎えた時期であり、当時の熱気もあわせてお伝えすることができれば幸いである。

1. 朝山新一とセクソロジー

1.1 「性科学」と「性学」

 まずは、セクソロジーという学問領域がどういったものなのか、その歴史を含め、簡単に解説するところから始めよう。セクソロジーとは、一言で表現するならば「人間の性の成りたち(human sexuality)を学際的に研究する科学」(朝山, 1977b: 80)のことである。日本語では「性科学」と訳すのが定番となっているが、朝山はこれを「性科学」ではなく、「性学」と訳すことにこだわった(2)。その理由は、次のように説明されている。

「セクソロジーの始まりは、19世紀の後半から今世紀初めにかけて、ドイツのクラフト=エービング(原文ママ)、モル、ヒルシュフェルトらによって展開された、一般にsexualwissenschaft(性科学)と呼ばれた精神病理学的な研究にまでさかのぼれるが、現在の《性学》は、人間の性を精神医学や臨床医学の場からだけでなく、さらに基本となる生物学・発生学・内分泌学・発達心理学・大脳生理学・行動科学・比較社会学・文化人類学・民俗学など、人間にかかわりあいのある広範な学問分野の交差のなかで科学的・学際的にとらえようとするもので、人間の性を中心にした総合科学を意味している。医学はともかく、それ意外のほとんどあらゆる学問領域、とくにおもしろいことに、人文科学でも《性》が除外されてきたのを、人間と人間がつくりだす事象を正当に理解するため、人間に関係する諸科学の交差のなかで、人間の性を包括的に把握しようとするもので、現在では、病理学的な概念を連想させる『性科学』に代わって、セクソロジー(セックスのロゴスを意味する《性学》)が国際的な学術語として使われるようになった」(朝山, 1977b: 80)。

 この説明に若干の修正と補足を加えておく。性科学が「病理学的な概念を連想させる」と言われた歴史的背景には、「性的倒錯が多様な形で樹立された時代」(Foucault, 1976=1986)がある。「セクソロジーの父」とも言われるリヒャルト・フォン・クラフト=エビング(Richard von Krafft-Ebing)あるいはジークムント・フロイト(Sigmund Freud)らの研究によって、人間の性が「秘められた対象」から「科学」の域まで引き上げられたとはいえ、当時の性に関する臨床・研究は精神病理学に重点を置き、生殖を目的としない性行為(サディズムやマゾヒズム、あるいは同性愛など)は病理と見なされるようになった。例えば、ベルリンの精神科医カール・ウェストファル(Karl Friedrich Otto Westphal)が1869年、同性にエロティックな魅力を感じるという症例を初めて発表したことをきっかけに、クラフト=エビングをはじめとする多数の精神科医が同様の症例報告を提出するようになり、ごく短期間のうちに、同性に愛情を抱くという「状態」は精神疾患として見なされるようになった(Haeberle, 2014)。そして日本のセクソロジーもまた、大正時代(1912-1926)、こうした「輸入性科学のラッシュ」(日本性問題研究史編集委員会, 1983)で幕を開けた。

 とくにクラフト=エビングの主著Psychopathia Sexualis(1886)は、『変態性慾心理』と訳され、1913年に日本で刊行された。これが「変態性欲ブーム」の火付け役になったとも言われる。当時について、安田徳太郎は「1880年代に勃興した性科学研究は専ら変態性欲現象に限られていた」(安田, 1936: 2)と批判的に語っている。安田というのは、日本のセクソロジストの先駆である山本宣治(従兄)と性行動調査を実施し、ともに産児制限運動を展開した医師である。当時の性科学に関する言論活動は「通俗性慾学」(3)と呼ばれ、一世を風靡した。

現在でいうところのLGBTQ+など「多様な性のありよう」を精神病理化したクラフト=エビングだったが、多くの同性愛者と個人的に親しくなった経験などから学説を改め、同性愛は精神疾患ではないと結論するに至り、晩年は同性愛の非犯罪化キャンペーンを支持するようになった(ブレディ, 2008: 70)。Sexualwissenschaft(セクシュアル・サイエンス=性科学)という概念を初めて提唱したのは、こうした取り組みを引き継いだベルリンの皮膚科医イヴァン・ブロッホ(Iwan Bloch)である(4)。彼は、1907年に出版した『われらの時代の性生活―現代文明との関連における性科学の完全百科』のなかで、人間の性に関する研究に医学、心理学、文化論などを統合する新しい科学の創設を提唱し、これをsexualwissenschaftと名づけた。つまり、性科学(セクシュアル・サイエンス)も性学(セクソロジー)と同じく、当初から、少なくとも理念上は(当時の担い手が男性の医師で占められていたという事実があるにせよ)、分野横断的な学際性を志す概念だったのである(Bullough, 1994)。

 性科学(sexualwissenschaft)という概念はすぐに仲間に受け入れられ、1908年にはマグヌス・ヒルシュフェルト(Magnus Hirschfeld)がこの名を冠した学術誌 Zeitschrift für Sexualwissenschaft を創刊し、1919年には世界初の性科学研究所であるInstitut für Sexualwissenschaftを開設した(5)。1913年には初の学会組織が発足し、1921年には初の国際会議が開催されている。これらはすべてベルリンで起こった出来事である(Haeberle, 2014)。

 次に、朝山が「性学」と訳すことにこだわったセクソロジーという言葉について補足しておく。この言葉の初出は『セクソロジーという人生哲学:社会組織と政府への示唆』(原題: Sexology as the Philosophy of Life: Implying Social Organization and Government)(1867)であるというのが定説で(Bullough, 1994)、その著者はエリザベス・ウィラード(Elizabeth Osgood Goodrich Willard)という米国人女性である。日本の文献でもそのように紹介されてきたが(佐藤, 2019; 赤川, 2020など)、より最近の研究においては、これよりさらに前の1852年にオーソン・ファウラー(Orson Squire Fowler)という米国の医師(骨相学)がセクソロジー概念を使用していたことが指摘されている(Kahan, 2021)。いずれにしても、セクソロジーという言葉の歴史はsexualwissenschaft(性科学)より古いのだが、米国におけるセクソロジーの歴史的展開については、「キンゼイ以降」を論じるのが一般的であり、ウィラードの名前さえ聞くことがほとんどない。そのことが「現在では、病理学的な概念を連想させる『性科学』に代わって、セクソロジー(セックスのロゴスを意味する《性学》)が国際的な学術語として使われるようになった」という朝山の説明にも影響しているのだろう。ちなみにキンゼイとは、後述するアルフレッド・キンゼイ(Alfred C. Kinsey)のことである。

1.2 「輸入性科学」から日本の「性学」へ

 朝山がこだわった「性学」という言葉についてもうひとつ補足しておくと、セクソロジーを「性学」と訳した最初の人物は(前出の)山本宣治である。その理由は、朝山の説明にもあった医学や生物学に限られない学際性にある。1922年に始まる「性行動の社会科学的統計調査」など、山本と9歳年下でいとこの安田徳太郎の活動は、日本が「輸入性科学」から「性学」へと転換を図る契機となった(日本性問題研究史編集委員会, 1983)。二人の業績について朝山は、「過去の日本の封建的非科学的な観念のみちあふれていた社会状勢を考えあわせて、研究の着目が諸外国に先行したといつて過言ではない。これはわが国における唯一のしかも画期的な業績として高く評価されねばならない」(朝山, 1949: 22-23)と絶賛している。

 青年期をカナダで過ごした山本は英語が堪能で、1922年に来日したマーガレット・サンガー(Margaret Higgins Sanger)の通訳を務めたことが知られているが(6)、実は安田も優れた語学力の持ち主だった。1922年、二人は外国語文献を読み議論する「性学読書会」を立ち上げた。生物学、医学、生理学、人類遺伝学などを専門とする15名ほどが参加し、「このような学際的な研究会は当時としては画期的なことであった」(友吉, 2000: 301)という。

 山本は、「性学」のほかにも「夢精」といった用語を考案したり、否定的なニュアンスをもつ古い表現を新しい、価値中立的な言葉に置き換えることに積極的だった。具体的には、手淫・自涜→自慰(7)、淫欲→性欲、交接→性交、花柳病→性病などの例がある(友吉, 2000)。山本の功績は枚挙にいとまがない。そしてその彼にいたく感銘を受けた朝山が、敗戦後の日本において「諸科学の枠をはずし、性にかかわりあいのある問題にたずさわる専門家や性の科学研究の活動にたずさわっているあらゆる分野の人々の参加のもとに(中略)人間の性にかかわる包括的で学際的な性研究」(日本性教育協会, 1977: 85)=「性学」を復活させるのである。

2. 「日本のキンゼイ」と呼ばれた朝山新一

2.1 現代セクソロジーの幕開けとアルフレッド・キンゼイ

(1) セクソロジーの復活

 セクソロジーに関する「世界最大」のオンライン・アーカイブArchive for Sexology(8)のコンテンツのひとつに、古代ギリシャ・ローマ時代から2014年までを網羅した「性の研究に関する略年表」(Haeberle, 2014)があり、4名の日本人(秦佐八郎、森鴎外、山本宣治、朝山新一)が紹介されている(9)

 朝山が登場するのは、「現代の性研究(1938-)」という時代区分で(図1-1)、1938年というのは、キンゼイが人間の性に関する調査に着手した年を指す。欧州では1933年から1938年の5年間、日本でも1935年から1944年(昭和10年代)は、性に関する言論活動が著しく抑圧された。とくに欧州においては、ヒルシュフェルトの研究所がナチスによって閉鎖され、貴重な文献資料も「焚書」で焼却されるなど、ヒットラーとナチスによる破壊、またそれに続く第二次世界大戦の影響で壊滅的となった。ユダヤ人のセクソロジストたちは亡命を余儀なくされ、二度とドイツに戻ることはなかった。戦後のセクソロジーはキンゼイによって、米国で復活を遂げるのである。

図1-1 「性の研究に関する略年表」(Haeberle, 2014: 18)

 キンゼイは昆虫学者で、当時すでに、タマバチという非常に珍しいハチの分類や遺伝の研究で世界的にも高い評価を得ていた。研究の焦点がタマバチから人間の性的経験の多様性へと移っていったきっかけは、インディアナ大学で「結婚」に関する科目を提供することになったことにある(Brown and Fee, 2003)。女子学生団体から、「人間の性に関する講座、とくに結婚などを中心にした講座を開いて欲しい」という要請があり、これを引き受けることにした(山本, 1994)。授業準備のため、セックスに関するあらゆる文献資料を読み漁ったが、特定の宗教など偏った価値観に基づくことのない科学的情報をほとんど見つけることができなかったために、自ら研究することにしたという(Kinsey Institute, 2022: 8)。『キンゼイ・レポート』は、こうしたエピソードから始まった。1947年には、性行動調査の過程で収集された膨大な資料の保管と調査継続を目的に、大学附置の性研究所(the Institute for Sex Research)が開設された(10)

(2) 『キンゼイ・レポート』(1948=1950)

 キンゼイらの調査の主要な結果は、まず始めにSexual Behavior in the Human Male(1948)として発表され、たちまちベストセラーになった。自発的な調査協力者に対する数回の個人面談、325というおびただしい数の調査項目など、その量と質は人々を圧倒し、(手法に対する批判はありながらも)当時の北米における実証的性研究の代名詞になった。何より、人間の性的行動は科学的な研究になりうる、またそうすべきであると説得してみせた点において実に画期的だったのであり、解放・改革運動にも影響を与えた。

 日本語版は、1950年に『人間における男性の性行為(上下巻)』(コスモポリタン社)として出版された。翻訳は、出版社に依頼された「日本性教育協会」(JASEとは別団体。次ページ囲み記事参照)の永井潜(生理学・優生学)や安藤畫一(生殖医療)らが担当した。永井は、「幾多性に関する著書の中、不真面目なものは勿論のこと、一連の権威ある著書でも、或いは性の生理衛生を論じ、或いは性の異常・疾病を叙べ、或いは性の技巧に重きを置く等、とにかく一部局に偏し、しかもその判断は、単に経験による主観を基調としているものが、甚だ多い」(永井, 1950: 10)と日本の状況を比較して嘆き、キンゼイらの研究の「科学性」と「先進性」を高く評価した。その特筆すべき特徴は、「すべて健康人を対象とした点」(安藤, 1950: 12)、「日常普通に生活している多数の健康な社会人の性経験」(朝山, 1954: 9)を扱ったことにあるとされた。過去の、19世紀末の精神病理学に重点を置く研究が「数において遥かに少ないばかりでなく、年齢・職業・身分等についても、小範囲に限局されたものであつた。特にその多くが、性生活からすれば、むしろ例外的な、変態性慾者を対象とせるものであつた」(安藤, 1950: 12)とされていたからである。永井は、「性に関する正しい解決には、先ずもつて、性について学問的に考究し、それに関して正しい知識をもつことが、先決問題でありまして、近時文化国家において、『性科学』の勃興を見るにいたつたことは、まことに故ありともうさなくてはなりません」(永井, 1950: 10)と述べ、新しい時代の幕開けを歓迎した。

 1953年には、『キンゼイ・レポート』第2弾となるSexual Behavior in the Human Femaleが発表された。同書は、朝山新一・石田周三・柘植秀臣・南博によって、『キンゼイ報告女性篇:人間女性における性行動(上下巻)』(1953=1954)として訳出上梓された。

永井潜と朝山新一と2つの「日本性教育協会」


『人間における男性の性行為(上下巻)』(1948=1950)の監訳者のひとりである永井潜(生理学・優生学)は、戦前の「断種法」(国民優生法)の制定を実現した立役者として最も有名である。しかし戦後は「敗戦による社会の混乱・性道徳の頽廃を懐慨」し、スウェーデンの教育学者エレン・ケイの唱える「性は生なり、また聖なり」の信条に共鳴して、結婚読本、キンゼイ・レポートの翻訳、性教育講話・性教育・世界性学全集監修など、性教育に関する著作を次々と発行するに至ったとされる(江川,1985: 277)。永井の精力的な活動は、キンゼイ・レポートの翻訳を委託された「日本性教育協会」と「日本性科学会」という2つの団体の立ち上げと会長就任という事実にも明らかである。キンゼイ・レポートの第2弾『キンゼイ報告女性篇:人間女性における性行動(上下巻)』(1953=1954)の翻訳を担当した朝山は、「日本性教育協会」の設立賛同者37名のひとりでもあったのだが、実のところ、永井が1948年に結成した「日本性教育協会」と朝山らが1972年に設立した「日本性教育協会」(JASE)には関連性がない。永井が1952年に組織化した「日本性科学会」は、朝山と篠崎信男(厚生省人口問題研究所技官=当時)らと結成した「性問題研究会」であると言われるが(島崎, 1995)、これも現存する「日本性科学会」(JSSS)とは、まったくの別組織である。1972年発足のJSSSは、日本セックス・カウンセラー・セラピスト協会をその前身とする。この頃の各組織の実態は「性教育史研究でもあまり明らかにされていない」(茂木, 2013: 7)ため、それぞれの関係性の確認作業は別稿に委ねたい(11)

2.2. キンゼイと朝山

(1) 往復書簡に始まる交流

「日本のキンゼイ」の異名をとる朝山とキンゼイ本人のファーストコンタクトは、1951年のことである。それは、朝山がキンゼイに『現代学生の性行動』(臼井出版 1949)を献本する形で始まった。図1-2は、キンゼイ研究所に所蔵されている二人の往復書簡である(12)。朝山からの添え状は、次のような文面で始まる。

図1-2 朝山新一とキンゼイの往復書簡(1951)

「突然、『現代学生の性行動』を送りつける無礼をお許しください。1949年10月に出版された拙著は、戦後の日本における性生活を調査する一環で収集された、18歳から22歳の学生に関する記録です。(中略)調査の前に、あなたの素晴らしい仕事を読むことができていたら、多大な影響を受けていたことでしょう。私の調査結果は単純集計のみで、統計的な分析がされていません。今後さらなるデータを収集し、専門家の協力を得て分析していくつもりです。」(1951年4月3日付)

 この手紙によると、朝山が初めてキンゼイ・レポート(男性編)を手にしたのは、原著の第1版が店頭に並んでからちょうど1年後の1949年1月である。京都大学の木原均がストックホルムで開催された遺伝学会から帰国する際、経由地のニューヨークで購入したものだったという。木原は遺伝学者だが、前述した山本と安田の「性学読書会」(1922年発足)のメンバーでもあった。

『現代学生の性行動』を贈呈されたキンゼイだったが、研究所では日本の文献資料も相当な数を収集しており、同書についてもすでに出版元に発注済みだった。1951年4月21日付の返信では、翌年には第2弾となる「女性篇」が出版される予定であることが書かれてあり、朝山の著書を含め、翻訳作業を急ピッチで進めていることが書かれている。その言葉どおり、1953年に出版された『キンゼイ報告女性篇:人間女性における性行動』には、朝山(1949)や篠崎の性行動調査(1951)を含めた日本の文献が何点か引用されている。

図1-3 『キンゼイ・レポート』の日本語版が1950年2月に出版された後、関西大学新報(1950年9月20日付)に掲載された『現代学生の性行動』(臼井書房)の広告

図1-4 キンゼイ宛の『現代学生の性行動』(臼井書房)の請求書と添え状

 ところで、今回、キンゼイ研究所から送られてきた複写物には、臼井書房からの請求書(本代240円と郵送費200円)と臼井喜之介がしたためた添え状(1951年3月10日付)が含まれていた(図1-4)。冒頭の自己紹介で臼井は、自身が詩人であること、詩集や随筆集を多く出版していることを述べ、「科学は最も根源的なもの」であるという考えから科学本も多く手掛けてきたと説明している。興味深いことに、初版4,000部の『現代学生の性行動』は2,200部しか売れておらず、出版すればするほどお金を失う状況にあるなど、添え状の大半が敗戦後の日本の経済的困難や出版業界の窮状を訴える内容で占められている印象が強い。話は、個人的な臼井家の苦しい懐事情にまで及ぶ。「二人の“幼い”息子とひとりの“幼い”娘、そして妻と母がいる身では、出版で生計をたてるのは困難です。生活費として月2万円を必要としますが、月収は1万円しかありません。」といった具合で、幼い(little)という文字がわざわざ鉛筆で書き足されている。ところが、「このような状況にあって、貴方さまからの注文はとてもとても嬉しいものでした。一冊だけとはいえ、私にとっては天の声です」と述べた後、請求書の添え状だったはずが、話は一転する。時代の寵児となったキンゼイからの発注がよほど嬉しかったのか、「お代は結構です。あなたからご返事さえいただければ、それだけで嬉しく思います」というファンレターのような一文で終わるのである。さて、キンゼイからの返信はあっただろうか。

(2) キンゼイと「日本のキンゼイ」 

 初めてキンゼイに宛てた手紙の中で、「あなたの科学的調査とは比較になりませんが、この国の現状においては、私の拙い調査でさえ苦労なくして達成できるものではありませんでした」と述べた朝山は、そのキンゼイと共に1979年の世界セクソロジー会議(第4回)メキシコ大会で「国際セクソロジー賞」を受賞している。

 同賞は、前年の1978年に発足したWorld Association for Sexology(略してWAS)(13)が、長年の功績や世界的インパクトのある業績を讃えるために新設したもので、栄えある初の受賞者には、キンゼイと朝山のほか、スウェーデン性教育の始祖である故・オッテセン=イェンセン(Elise Ottesen-Jensen)、『人間の性反応』(1966=1980)でつとに有名なマスターズ&ジョンソン(William H. Masters & Virginia E. Johnson)、SIECUS(14)の創立メンバーであるレスター・カーケンダール(Lester A. Kirkendall)と、錚々たる顔ぶれが並ぶ。キンゼイは、1956年8月、心疾患と肺炎によって62歳という若さでこの世を去っており、朝山もまた1978年の国際会議からの帰途、パリにて病を患い、帰国数日後に享年70歳で急逝した。そのため、栄えある授賞式には、長男・朝山耿吉氏が代理出席した。

 壇上に立った彼が受賞の喜びを語るスピーチで「いかなる学問でもそうであるが新しい思想は常に迫害と嘲笑の時期をもつものであり、父朝山新一も例外ではなかった」(阿波, 1980: 21)と述べた言葉は、多くのセクソロジストの心に響くものだったに違いない。大阪市立大学大学院で朝山から発生学の指導を受けた古沢満(大阪市立大学理学部助教授=当時)も、恩師の苦労を次のように語っている。「当時の時代的背景を考えると、勇気と並々ならぬ情熱を要したことはいうまでもない(中略)先生亡きあと、先生の志をつぐ者が研究室に一人もいないことは、私たち教え子の責任であると同時に、この仕事の容易ならざることを物語るもの(である)」(古沢, 1979: 70-71)(15)

 ところで朝山は、旧来の慣習的観念からの解放を促す科学的根拠を提供したキンゼイの功績を高く評価しながらも、「キンゼイが婚前の自由性交は将来結婚性生活にとってアベイラブルである、といった見解には、かなり反駁していた」(篠崎, 1979: 71)という一面もあったという。『現代学生の性行動』(1949)の中で、「封建的な禁圧一てんばりの性道徳の中に閉じ込められていた日本の民衆の性に対する好奇心は、変態性欲にたいする猟奇趣味となつてハケクチを見出し、変態的性研究が跋扈する都合のよい培地であつた(中略)正しい性の知識どころではなく、ゆがんだ不健康な性興奮の渦流のなかで大衆はホン弄されていた」(朝山, 1949: 19)と述べた朝山らしい一面というべきか、彼は性行動調査が必要である理由に「新しい性倫理の確立」を挙げていた。一方、「普通とは何か」を追究し続けたキンゼイは、異性間の婚前交渉や自慰のみならず、同性愛やサディズム・マゾヒズムなどについても非審判的な態度で調査に臨み、従来「性的倒錯」と言われていたもののほぼすべてが生物学的な正常の範囲内にある、という結論に至っている(Gathorne-Hardy, 2000)(16)

「日本のキンゼイ」と呼ばれただけあって朝山とキンゼイには重要な共通点がありつつも、規範意識が強い印象のある朝山に対して、キンゼイは私生活からして「クィア」な人であった(17)。この点において二人は対照的なのだが、キンゼイが非規範的な性の実践者であったことは、没後ずいぶんと歳月が経って公になった事実であり、朝山がそのことを知る機会はなかったと推察される。キンゼイは、米ソ冷戦時代を背景とする「赤狩り」旋風によって「セックスを通じてアメリカを堕落させる共産主義のスパイ」とまで言われ、晩年は研究資金の打ち切りをはじめとして、様々な問題や批判に悩まされた。生前のみならず、没後も悪意に満ちた人格攻撃にさらされ続けている。

 朝山にはこうした「スキャンダル」がなく、むしろ『さようならありがとうみんな ―癌と闘った夫妻の記録』(中公新書, 1971)を出版した、ストレートな「愛妻家」のイメージが強い。先に「規範意識が強い印象のある朝山」と書いたが、1960年代に本格化した「性解放」(sexual liberation)・「性革命」(sexual revolution)について積極的な理解を表明していたことも強調しておきたい。1967年に出版された著書『性教育』(中公新書)の中では、純潔教育を批判するばかりでなく、「アメリカ・北欧・西欧にみられる〈自由な性〉の現実を旧道徳の感覚で、慣習的に性の退廃という言葉で非難し去るのはあまりにも単純すぎる態度であろう。性は人間のこれ迄の歴史になかった在り方で肉体の制約から解き放され、新たに精神の領域に歩みよろうとしていることに気づかねばならない」(朝山, 1967)と述べている。

3. 海外との架け橋となった朝山新一

3.1 国際的なつながりが強化された1970年代

「セクソロジーは、1970年代になるまで、上品な人々の間ではあえて名乗りをあげることのなかった科学である。ほかの科学者たちからは、セクソロジーはポルノグラフィであるとあざけられたり、恥ずべきもの、禁制さるべきものとして締め出されていた」(Money, 1980= 1987:293)と、セクソロジーの世界的権威ジョン・マネー(John W. Money)は語る。生殖や婚姻関係の制約を受けない性的な活動や関係性、特定のアイデンティティなどを非犯罪化(法律や規則の廃止)し、あるいはこれらを合法化するための制度の策定、知識の生産、考え方の変化を求める運動が本格化し、セクソロジーはこれらに正当性を与える「科学的根拠」を提供した。例えば、1966年には、マスターズ&ジョンソンが著書『人間の性反応』(1966=1980)においてオーガズムが男女に共有の生理的反応であると説明し、同年、Transsexual Phenomenon(1966)を出版したハリー・ベンジャミン(Harry Benjamin)によって、性別違和に対するホルモン療法や性別適合手術が正当化された。

 しかし、1970年代までは人間の性を研究しようという学者の数がそもそも少なく、医学や社会学など異なる専門分野に属する研究者が交流する場は、紙面上ですらないという状況だった。そこで1971年、リチャード・グリーン(Richard Green)を編集長とするArchives of Sexual Behaviorが創刊され、1975年にはこれを学会誌とするInternational Academy of Sex Research(IASR)が結成された(Green, 1985)(18)。さらに1974年、International Congress of Medical Sexology(国際性医学会議)(19)がパリで開催され、これを第1回学術集会に位置づける学会組織WASが1978年に正式発足した(図1-5)。このように、1970年代は国際的な横のつながりを強化する動きが相次いだ。

図1-5 WAS国際会議(1974~2025)

3.2 新しい時代の新しい性教育

(1) 日本性教育協会の設立(1972)

 1972年3月、文部省が「純潔教育と性教育とが同義語であるとの見解に立って、事務をすすめる」とした局長裁定文書「純潔教育と性教育との関係について」を発表した。その前月、文部大臣の認可のもとで設立されたのが財団法人日本性教育協会(JASE)である。純潔教育の背後には「男女間の風俗の乱れ、性道徳の低下、性犯罪の増加、性病の蔓延等、性の社会問題が国民一般、ことに青少年に及ぼす影響への強い問題意識」(文部省社会教育局, 1967: 1)が存在していた。朝山は、1967年に著した『性教育』においても、「“純潔”という観念にまつわりついてはなれなかった従来の肉体中心の処女性尊重思想と、因循で精神と主体性のない男性従属の性道徳を破棄するためにも、そういうあいまいな表現は避けるべきであった」(朝山, 1967: 3-4)と述べ、これを批判していた。

 機関誌『現代性教育研究』は、JASE設立と同時に刊行された。広瀬(2016)は、「性科学に依拠する開放的な性教育を発信した性教育協会とその機関誌である『現代性教育研究』は、性教育のカリキュラム構築をも含めて、1970 年代以降の性教育の主流言説の形成に多大な役割を果た(した)」(p.303)と分析している。

(2) 山本宣治ではなくカーケンダール

 新しい時代の新しい性教育を模索するなかで、JASEが起用したのはSIECUSのカーケンダールだった。『現代性教育研究』創刊号(1972年5月)と第2号(1972年8月)には、カーケンダールによる特別寄稿「現代社会における性の役割」と「現代社会における性教育の役割」が連載されている。本項の小見出し「山本宣治ではなくカーケンダール」というのは広瀬論文からの転用で、『現代性教育研究』創刊号にカーケンダールが起用されたことに象徴されるJASEの動きを指している。つまり、朝山が人間の性の解明なくしてその真の解放はあり得ないと確信するに至るには山本の存在が大きかった(阿波, 1980)にもかかわらず、その朝山が中心となって設立されたJASEは、日本の先駆的な性科学者ではなく、「日本で無名だったアメリカのカーケンダールによるセクソロジーの知見を出発点とした」(広瀬, 2016: 308)(20)。そして、カーケンダールの「新しい時代の新しい性の概念」という主張は、来日講演やJASE機関誌に掲載された寄稿等を通して広められ、日本の性教育の変革に大いに刺激を与えた(柳園, 2023)(21)

 カーケンダールはセクシュアリティ概念について「セックスとは身体部分のそれに関わる行動の総称として考えてきたが、セクシュアリティとは、人格と人格の触れ合いの全てを包含するような幅の広い概念で、人間の身体の一部として性器や性行動のほか、他人との人間的なつながりや愛情、友情、融和感、思いやり、包容力など、およそ人間関係における社会的、心理的側面やその背景にある成育環境などもすべて含まれる」(カーケンダール, 1972a: 133)と説明した。「セックスは両足の間にあるものだが、セクシュアリティは両耳の間にあるもの」という有名な言葉は、これに由来する。

 ここで改めてカーケンダールを紹介しておくと、彼は家族関係学を専門とする性教育論者である。メアリー・カルデロン(Mary S. Calderone)と共にSIECUSを創設した中心的人物で、1979年にキンゼイや朝山らと「国際セクソロジー賞」を受賞したひとりである。JASEとの関係はその設立準備期の1971年に遡る。「私はその草創期から、JASE(日本性教育協会)を支援してきたように感じる」(カーケンダール, 1985: 1)と本人が書いているとおりである。

 1971年に初来日したカーケンダールは、約7週間(9月26日~11月14 日)という長い滞在期間中、日本学校保健学会、早稲田大学、学芸大学など、全国各地11か所でセクシュアリティ概念と性教育論についての講演をして回り、報道5社との座談会も4回を数えた(波多野・黒田, 1972)(22)。JASE設立準備委員会の朝山や村松博雄らとの初めての懇談については、後のインタビューで「私は日本に滞在し、日本性教育協会を設立するのを手伝いました。彼らはとてもリラックスしていて、学校で性教育プログラムを立ち上げたいと考えていました」と語っている(Loso, 1984)。こうした活動のすべてを企画・調整・担当したのは、オレゴン大学留学の経験がある波多野義郎(東京学芸大学助教授=当時)だった。オレゴン州立大学教授のカーケンダールとは面識がなかったが、帰国後に本人から直接連絡が入って以来、親交を深めるようになったという。カーケンダールの著書の翻訳にはすべて波多野が関わっている。

3.3 JASEの海外交流事業

 JASEの主な事業には、1)ジャーナルの発行、2)青少年の性行動調査の実施、3)国内・国外の研修セミナー開催、4)文献資料の収集と管理などがある。1976年には、日本におけるセクソロジーの基礎づくりを目指す「日本=性研究会議(JASS)」も組織化された。様々な活動の中でも、海外とのネットワーキング、性教育・セクソロジーに関する海外の情報の収集や翻訳などは、「わが国を代表する国際的機関」(日本性教育協会, 1972)となることを宣言したJASEに特徴的なものであるといえる。

 1972年9月にスウェーデン性教育協会(RFSU)のエリザベス・ベッタグレン(Elizabeth Bettengren)を招聘した講演会を開催したことを始め、諸外国からの訪問や招聘が相次いだ(図1-6)。1974年からは、間宮武を団長とするヨーロッパ研修(1974年5月)、朝山新一を団長とする米国研修(1975年5月)、篠崎信男を団長とするヨーロッパ研修(1976年5月)、黒田芳夫を団長とするオーストラリア研修(1977年8月)、松本清一を団長とするハワイ大学セミナー(1979年7月)、荻野博を団長とする米国研修(1981年7月)など、海外性教育研修も実施するようになった。また、キンゼイの紹介でWASの会員になった朝山は、「たったひとり」で国際会議に参加し、「年々、人間の性に関する学際的な研究や研究会議が盛んになる。その実情に日本のアカデミックな学界も眼を開く必要がある」(朝山, 1977a: 29)と日本に伝え続けた。彼が先導役となり、ローマ大会(1978)からは日本からの参加者も増え、1979年には、JASEもWASの正式加盟団体となった。

「あのころは、挙げて性解放というような雰囲気があり、セミナーに参加している人達に、自分の意識は解放されているといった思い込みや試行錯誤もあって、ごちゃごちゃしていた。それも楽しかったんでしょうね。つまり日本は封建的で閉鎖されている、それを打ち破るのは自分達だ、という高揚した気分があった」(宇野他, 1995:24)。こう語るのは、長く全国性教育研究団体連絡協議会理事長を務めた田能村祐麒である(23)。かくいう筆者も、1974年のヨーロッパ研修に参加した父(高校教員=当時)の土産話に心躍らせ、大人に混じって関西の研究会に出入りしていたひとりである。記憶の片隅には、熱心かつ楽しそうに性を語っていた当時の大人たちの姿が常にある。

図1-6 日本性教育協会(JASE)海外交流事業の10年

4. ジョン・マネーと朝山新一

4.1 ジェンダーを発明した人物

 朝山は、生涯に4冊、セクソロジーに関するところでは2冊の訳書を手がかけている(監修などを除く)。世界のセクソロジーの最新動向に通じていた朝山が手掛けた最初の1冊は『キンゼイ報告女性篇:人間女性における性行動』(1953=1954)で、もう1冊がマネーの『性の署名:問い直される男と女の意味』(1975=1979)である。正確には、1978年に朝山が急逝したため、息子夫婦(朝山春江と朝山耿吉)が翻訳を完成させた(24)

 朝山のみならず、世界中の多くのセクソロジストにとって、マネーは他と比較にならないほどの大人物である。WASの隔年会議ローマ大会に参加した宮原忍は、朝山から「セクソロジーの最高のリーダー」として初めてその名を聞かされたという(宮原, 2006: 7)。翻訳については朝山春江氏が次のように語っている。「舅の朝山新一は、JASEの『現代性教育研究』や他の書物でも性科学の小論文を発表していまして、性科学の発展動向について述べる際には必ずマネー博士のお名前を引用していたんですね。とくにGender-Identity/ Role(ジェンダー・アイデンティティー/ロール、略してG-I/R)の概念について説明していたのですが、それを本という形で紹介したいという要望がありました」(宮原・朝山, 1991: 60)。

 ジェンダーという言葉が現在のように広く社会に定着したのは、1970年代以降の女性学やジェンダー研究によるところが大きいが(舘, 1998)、1950年に「人間のセクシュアル・アイデンティティの心理的側面を説明する言語を提供した最初の科学者」はマネーである(25)。それまで言語学上の分類概念でしかなかった「ジェンダー」を、1950年代に人間の性のありようを説明する言葉として使用した最初の人物であり、それゆえ「ジェンダーを発明した人物」(Goldie, 2014)とも呼ばれる。より正確には、1955年に発表された論文でマネーが初めて「ジェンダー・ロール」という概念を提唱し、1963年の学会で、精神分析家のロバート・ストーラー(Robert J. Stoller)が「ジェンダー・アイデンティティ」という概念を発表した。マネーとストーラーは、それぞれジョンズ・ホプキンス大学とUCLAで(当時は「半陰陽」と呼ばれていた)インターセックスに関する臨床研究に携わっていた。彼らは、男女に非典型な特徴をもって生まれてきたインターセックス児の行動やアイデンティティがどのように発達するのかについての体系的な理論を提供するにあたり、「ジェンダー」という新しい概念を用いたのだった。

4.2『性の署名』(人文書院, 1975=1979)

『性の署名』というタイトルには、男であるということ、女であるということ、ジェンダー・アイデンティティ、性のありようといったものは署名(自署)と同じでそれぞれに異なる、という意味が込められている。遺伝学、発生学、内分泌学、神経内分泌学、心理学、人類学を駆使して、これまで自明視されてきた性差を徹底的に精査し、歴史的、文化的、社会的影響を強調した上で、新しいジェンダーの発達モデルを提供している。このように紹介するといかにも難解な専門書に聞こえるが、そうではない。同書は先に出版されていた専門書Man & Woman, Boy & Girl(Money and Ehrhardt, 1973)を一般向けに書き直したものである。ジャーナリストのパトリシア・タッカー(Patricia Tucker)を共著者に迎え、難解な学術用語を用いることなくセクソロジーの最新知見を伝えている。「日本の学者にはとても書けない、一般の人への啓蒙としてもすばらしい本なのだから、できるだけ多くの人に読んでもらいたい」(宮原・朝山, 1991: 60)との思いで、日本語に訳する際には「わかりやすさ」を心がけたという。朝山のこうした思いが通じ、『性の署名』はこの手の図書としては異例の売れ行きとなった。

 ところで最近、「日本のキンゼイ」と呼ばれた朝山の功績は知らないが、「性自認」と訳した人物としてならその名を耳にしたことがあるという人が出てきた。「性自認」というのはジェンダー・アイデンティティの訳語で、『性の署名』が出版されて以降、女性学、社会学、法学、医学など幅広い分野で使用されるようになって広く定着し、様々な自治体が使用する用語にもなっている。ところが近年、ジェンダー・アイデンティティの訳語として「性自認」と「性同一性」のどちらを使用すべきかをめぐる論争が起こっているのである。例えば、2023年に成立した「LGBT理解増進法」をめぐる議論で、「性自認」を使用した野党案と「性同一性」を使用した与党案が対立するということがあった(26)

「性同一性」は、一般には1990年代以降に「性同一性障害」という診断名として知られるところとなった専門用語で、小此木啓吾が「自我同一性」と訳したエリク・エリクソン(Erik H. Erikson)のアイデンティティ論(Erikson, 1959=1973)に倣った訳語である。「性自認」という訳語で「自分が男である・女である」ということをどれほど明確に自認しているか(意識しているか)という面が強調されるのに対して、「性同一性」では自己斉一性・連続性が重視される(福島, 1980)。そこで、字義を問題とする人々からは、「性自認(self-recognition)=性同一性(gender identity)ではない(中略)その点で,自治体の条例などで,ジェンダー・アイデンティティの訳語として「性自認」を使うのは適当ではない」(三橋, 2024: 313)といった意見が聞かれるようになった。

 マネーは、「アイデンティティは私的なものであり、主観的に経験される」(Money, 1980=1987: 36)と述べた上で、gender identityではなく、G-I/R(ジェンダー・アイデンティティ/ロール)という概念を提唱した。「二つの言葉を連結して一用語としているのは、この現象の統合性を守るとともに、この用語を使う人がアイデンティティを精神に、役割(ロール)を身体に、と割り当てることで、精神と身体を切り離すという時代錯誤の習わしに誤って落ち込まないようにという目的からである。ある人間自身の個人的なジェンダー・アイデンティティ(性自認)は、その当人を除けばその他すべての観察者にとっては推理として存在している。それは、その人が口に出す言葉、音声言語と身ぶりで表すことば、肉体言語を通して表現することから観察者によって推理されるのである」(同掲: 35-36)。この説明からも、ジェンダー・アイデンティティ(性自認)が「言ったもの勝ち」的な「自称」と同じでないことは明らかである。ジェンダー・アイデンティティをそのままカタカナ表記にせず「性自認」としたのは、一般書としての「わかりやすさ」に配慮した結果であり、広く定着した事実からもその効果は明らかである。また、トランスジェンダー・バッシングが起こる前は、字義による誤解が問題になることはなかった。とはいえ、「自称で済むなら、女性と偽って女風呂に入ってくる男を許すことになる」といった流言が出回るようになった現在、訳語をめぐる論争は長引きそうである。

4.3 “マネー・ショック”

 宇野賀津子(京都パストゥール研究所、現・公益財団法人ルイ・パストゥール医学研究センター)によれば、朝山がマネー理論に初めて触れたのは、WAS国際会議・パリ大会(1974)のことだという。「1974年の国際会議から帰ってきた朝山は、とてもすごい発表があったと興奮気味に話された。それはペニスを失った男の子を、女児として育てたJ.マネーの報告であった。私は小さな研究会で、先生からJ.マネーの紹介した写真とともに、デビッド・ライマーの写真をみた」(宇野, 2020: 12)。この事例について、朝山自身も1975年に出版された『JASEセクソロジー・シリーズ No.3』で、次のように紹介している。「出生後の乳幼児期の環境条件が性の役割を決定するという人間の性を考えるうえでたいへん興味があり貴重な実例がジョンズ・ホプキンズ大学医学部のジョン・マネー教授によって報告されている。(中略)マネー教授が報告したときは、その子は7歳になっていたがその動作はきわめて自然な女の子のしぐさであり、心理テストでも完全に7歳の女児の反応結果と一致した」(朝山, 1975: 30)。

 パリ大会(1974)の翌年には、朝山新一を団長とする海外性教育研修が実施され、ジョンズ・ホプキンス大学にマネーを訪れている。『現代性教育研究』に掲載された報告書によれば、一行は、朝山がパリで受けた衝撃と同じ経験をしたようである。「講義はほとんどハプニング的ショックで開始される。ここでは突然、マネー博士が中年女性と共に登場し“Gender identity”という難解なテーマを持ち出したのだ。(中略)この問題を素人が理解するのは容易なことではない。一行中のドクター連もしきりと頭をひねった」(山内, 1975: 7-8)。「中年女性」というのは、「遺伝的男性(染色体テストでもXY、完全な男性、軍務に服し優秀な海軍士官にまでなった男性)」(朝山, 1975: 31)つまりトランス女性だった。ジョンズ・ホプキンス大学は、1966年に米国で第1号となるジェンダー・アイデンティティ・クリニックを開設し、それまでインターセックス児のみを対象としていた性別再指定手術(Sex Reassignment Surgery: SRS)をトランスジェンダーにも適用するようになっていた。その日の夜は“マネー・ショック”をめぐる質疑討論の場になったといい、報告書は「とにかく、マネー博士が人間のGender identityにかける努力と、われわれ異邦人のために自身のプライバシーをあらわにしてくれた女性に、深く敬意を表したいと思う」(山内, 1975: 8)と締め括られている。

 周知のように、デビッド・ライマーについては、残念ながらマネーが報告した内容とは大きく異なる事実がすでに明らかになっている。その詳細については本書第3章およびコラム、あるいはジョン・コラピント(John Colapinto)のルポルタージュ(27)をご参照いただくとして、『性の署名』にも登場するこの事例の「真実」について、朝山が生きていたらどうコメントしただろうか。発生学を専門とする朝山には、疑問に思う点も多々あったに違いないと考えるが、批判した形跡はない。

 2004年、マネーに批判的な(あるいは酷評する)番組(28)を制作したBBCのインタビューを受けたグリーンは、番組中、唯一マネーを擁護するセクソロジストとして次のように発言している。「ジョン(マネー)が下した判断は、人がどのようにして男性あるいは女性、少年あるいは少女になるのかということ、あるいは外科的手術によってペニスを形成することがいかに困難であるのかについて、当時として私たちが知り得たことに基づいており、それゆえ正しいものだった。私とて同じ決断を下していただろう。」(グリーン, 2008)。しかし、実のところマネーが成功例として公表する前の1970年には、すでにいくつかの問題が彼自身によって認識されていたことも明らかになっている。マネーはその事実を発表せず、軌道修正をすることもなかった。これがこの事例をめぐる最大の問題であると考える。

最後に

 性教育の使命について朝山は、「基本的な人権を尊び、自主的な精神に充ちた社会人をつくること」にあると言明している(朝山他, 1978: 16)。朝山は、体制側が若い世代の性行動の「乱れ」を「頽廃」とみなしていた時代に「頽廃は、抑圧の中で生まれる。ほんとうの頽廃は、人間の権利が侵され、自由な意思が抑圧されるところに胚胎する」と述べ、こうした基本姿勢は、生涯崩れることがなかった(岡本, 1978)。

 人権としての性教育、あるいは人権としての性の権利について、いち早く論じたのが、ヒューマニズムの見地から性教育を推進したカーケンダールである(29)。彼は「人間には、他者を傷つけたり、他者の性的表現の権利を妨げたりしないかぎり、自分の性的欲求を表現し、自分がふさわしいと思う関係性を結ぶ権利がある」(Kirkendall, 1976: 4)と述べ、37名のセクソロジストたちと共に9項目からなる「性の権利と責任に関する新たな憲章」(1976)を策定した初めてのセクソロジストでもあった。彼らのいう「性の権利」には、①自分の身体をコントロールし、自分の性的表現の本性を決定する権利、②セクシュアリティに関して十分な情報を与えられる権利、③自発的な不妊と中絶への権利を含めた、出産コントロールへの権利、④触れること、愛情を授受すること、および親密な身体的応答の満足への権利などがあり、同性愛者やバイセクシュアルを含めたあらゆる人々がその主体に位置づけられている(池谷, 2015: 45)。なお、こうした精神を引き継ぎ策定されたのが、WASの「性の権利宣言」(初版1999; 改訂版2014)であり、最新版(WAS, 2014)では、「包括的性教育を受ける権利」を含めた16項目が発表されている。

【注釈】
(1) 2012年に一般財団法人日本児童教育振興財団に統合合併され、同財団の「学校における性教育振興のための事業と助成」により、日本性教育協会(JASE)として活動を継承している。

(2) 「性科学」という言葉を造語したのは、1920年代に山本宣治と共に性行動調査を実施した医師・安田徳太郎であるという(友吉, 2000)。

(3) 『通俗性慾学書』(1920)を著した医学者・羽太鋭治は、自慰や婚前交渉の予防を目的とする「性欲教育」の推進者であった。大正という時代において自慰と同性愛は、性的な危険性の代表として繰り返し取り上げられた「もっとも重要なトピック」だった(古川, 2001: 91)。

(4) 当時のドイツ医学では、皮膚科が性感染症を扱っており、ブロッホには『マルキ・ド・サド:その生涯と作品』(1899)などの著書もある。

(5) ヒルシュフェルトは、同性愛に関する統計調査に携わり、1897年に世界初の同性愛者権利擁護団体である科学的人道主義委員会の設立に尽力した。1928年には、男女の法的・社会的平等、および性教育と避妊法への普遍的なアクセスを提唱する世界性改革連盟を設立したことなどから、同性愛者権利擁護運動の始祖と言われる。

(6) 山本宣治は、その後1925年2月に産児制限評論社を創立し、月刊誌『産児調節評論』(同年10月に『性と社会』に改題)を発刊するなど、積極的に産児制限運動を展開した。

(7) 「自慰」という言葉を普及させた山本は「自慰無害論の神様的存在」(赤川, 1995)とも言われるが、1922年にこの言葉を初めて提唱した人物は小倉清三郎(性の研究のために「相対会」を設立した人物)である。もっとも、クリスチャンの家庭に育った山本は、当初、旧約聖書の「オナンの大罪」(膣外射精=生殖に結びつかない射精をすること)に由来するオナニー(=自慰)には否定的だった。しかし、安田徳太郎と「性行動の社会科学的統計調査」を実施したことで、若者の多くがオナニーをしていることを知り、認識を改めたのだという。

(8) Archive for Sexology(http://sexarchive.info)同サイトは、ドイツの性科学者アーウィン・ヘーベル(Erwin J. Haeberle)が1994年に創設した、性科学に関するe-ラーニング総合ポータルサイトで、とくに第二次世界大戦前のドイツ・オーストリアのパイオニアたち(1896-1936)に関する文献資料が充実している。当初はフンボルト大学ベルリンのサーバーを使用していたが、2020年にその管理運営権がすべての所蔵品と共にインディアナ大学・キンゼイ研究所に移譲された。ここでは膨大な文献資料を15か国語で検索することができ、10か国語で提供されている6つのコース(性の解剖学と生理学、生殖、男女における身体的問題、性感染症とその予防、性機能障害とその治療、性行動)を無料で受講することができる。

(9) PDF化された略年表(Haeberle, 2014)からは削除されているが、フンボルト大学ベルリンのサーバーを使用していた頃は、日本のセクソロジストのパイオニアである山本が右翼に暗殺されたと、短いながらも顔写真つきで紹介されていた(東, 2010)。

(10) Kinsey Institute:Learn our history. https://kinseyinstitute.org/about/history/ index.php(2024年7月1日)多大な功績を讃え、彼の名を冠したキンゼイ研究所に改名されたのは、博士の死から25年後の1981年のことである。

(11) ちなみにキンゼイ・レポートの監訳者のひとりである安藤畫一は「本書の完譯に就いての感想」(1950)を執筆した自身の肩書を「日本性科学会々長」としており、これは島崎(1995)の解説より2年早い。1948 年9月に発行された『日本性教育協会会報・創刊号』に掲載された組織図には、同協会の下部組織として「日本性学会」の位置づけを確認することができる。

(12) キンゼイ研究所に所蔵されている膨大な文献資料の多くがオンライン検索できるようになっている。しかし、2024年9月現在、朝山に関して検索できたのは書籍や論文のみだったため、キュレーターに依頼して発掘してもらったのが、この朝山とキンゼイの往復書簡である。

(13) WASは長らく「世界性科学学会」として親しまれてきたが、2009年に現在のWorld Association for Sexual Healthに改称したのに伴い、日本語表記も「性の健康世界学会」に変更された。略称はWASのままである。「国際セクソロジー賞」は現在は継続されていないが、1995年に横浜で開催された第12回世界性科学会で新たに「WASゴールドメダル」が創設され、現在に至る。日本人としては、1995年にジョン・マネー(John W. Money)やヘレン・カプラン(Helen S. Kaplan)らと共に松本清一が受賞した後、石浜淳美(1999)、波多野義郎(2001)、池上千寿子(2011)、大川玲子(2019)と続いている。

(14) SIECUSとは、Sex Information and Education Council of the United States(全米性情報教育協会)の略で、1964年に創設された民間組織である。名称については、2019年の創立55周年を機に、以前のスペルアウト表記の名称を廃し、正式名称をSIECUSに変更。さらに「社会変革のための性教育(Sex Ed for Social Change)」というキャッチフレーズを追加した。

(15) セクソロジストとしての朝山の唯一の後継者と言えるのは、本書3章を担当している宇野賀津子(公益財団法人ルイ・パストゥール医学研究センター)である。

(16) 米国人男性の90%が自慰行為を行い、85%が婚前性交渉を経験し、35〜45%が婚外性交渉を経験し、59%がオーラルセックスを経験し、およそ70%がセックスワーカーと関係を持ち、37%が少なくとも一度はオーガズムに達する同性との関係を持ち、農家の青少年の17%以上が獣姦を経験していた。

(17) 2004年に公開された伝記映画『愛についてのキンゼイ・レポート』(原題 Kinsey)には、これに関連するエピソードが登場する。「調査によって、婚前性交や婚外性交が多数行なわれていることが判明した。動物においても、人間においても、不倫や乱交は決して異常ではないのである。ということは、われわれも不倫や乱交をして何が悪いのだろうか、と彼らは考えた。そしてそれを仲間内で実践しはじめるのだ。キンゼイは自分の妻が若い研究者たちとセックスするのを許す。研究者たちもお互いの妻を交換するようになる。キンゼイも研究者たちと同性愛を行なう」(森岡, 2005)というものだが、映画ではかなりトーンを抑えた描写になっている。

(18) グリーンは、その頃まだ精神疾患とみなされていた同性愛や小児の性別違和に関する研究で著名な精神科医で、1973年に米国精神医学会が診断マニュアルDSM-III(精神障害のための診断と統計の手引き第3版)から同性愛の項を削除するに至ったことにも大きく貢献した(グリーン, 2008)。

(19) 当初の会議名は「性科学」ではなく「性医学」を名乗っていた。その理由について朝山は、「性に対する通念が科学化されていない文化圏にある社会」では、会議の計画や実行が円滑に進むのを考慮する必要があったからだと説明している(朝山, 1978: 39)。

(20) その理由について、文部大臣の認可を受けて設立されたJASEにとっては、政治家としてのイメージが強かった山本を避けることが、「冷戦期の自民党政権下に安定的な立ち位置を順応的に確保する上で有利に働いた」(広瀬, 2016: 308)というのが広瀬の分析である。

(21) 柳園(2023)は、カーケンダールの影響について述べた先行研究として、1970年代から1980年代の日本の学校教育が医学的立場から教育学的立場へと移行していったことへの影響に言及した鹿間(2010)や、カーケンダールらの「ヒューマン・セクシュアリティ」概念に依拠した性教育理論が「JASEを中心に」展開されたことで、〈性=人格〉原理が純化されていったことを指摘した池谷(2001)などを紹介している。

(22) 柳園(2023)によれば、初来日直前の1971年9月から12月、兵庫県教育委員会・長期研修の一行が渡米し、カーケンダールに性教育の指導を受けていたという。

(23) 全国性教育研究団体連絡協議会(略称で「全性連」と呼ばれる)は、19団体の参加を得て、1981年12月に発足した組織。初代理事長となった田能村祐麒は、2009年まで理事長を務めた。加盟団体には、山本直英が立ち上げた“人間と性”教育研究協議会(略称で「性教協」と呼ばれる)も含まれる。

(24) 『性の署名』(1979, 人文書院)巻末に、朝山耿吉による「訳者あとがき」が収録されており、日本版翻訳に至った経緯も詳細に記されている。本ブックレット「資料『性の署名』訳者あとがき」に人文書院の許諾を得て転載しているので参照されたい。また、朝山春江と耿吉は、1987年にも2冊目となるマネーの著書『ラブ・アンド・ラブシックネス: 愛と性の病理学』(人文書院)も訳出上梓している。

(25) マネーの訃報を伝える2006年7月11日付のThe New York Times紙の記事で引用されたケネス・ズッカー(Kenneth J. Zucker)の言葉(https://www.nytimes.com/2006/07/11/us/11money.html 2024年8月20日アクセス)。

(26) 針間克己(精神科医)は、「この議論の背景には、性同一性障害という言葉が医学用語であったことから、『性同一性』は医療的なニュアンスが強い一方で、『性自認』は、LGBTの人権の文脈でこれまで使われてきているため、人権モデル的なニュアンスが強いという事情がある。つまり、『ジェンダーアイデンティティ』を医療モデルで捉えるのか、人権モデルで捉えるのか、というのがこの論争の背景にあったのではないか」と解説している(第5回 性的指向・ジェンダーアイデンティティ理解増進連絡会議(2024年5月23日)の議事概要5頁)https://www8.cao.go.jp/rikaizoshin/meeting/k_5/pdf/gijigaiyo.pdf

(27) ジョン・コラピントによるルポルタージュ『ブレンダと呼ばれた少年』は2000年に無名舎から出版された後、しばらく入手不可能となり、2005年に扶桑社から新版が出た。現在入手できるのは後者のみであるが、いくつか注意を要する点がある。この新版では「ジェンダーフリーの『嘘』を暴いた本書の意義」と題する八木秀次による「解説」が追加され、著作の内容や性科学者の主張が「本来の趣旨とはまったくかけはなれたものにねじ曲げられ、男女共同参画政策やジェンダー・フリー教育バッシングのために利用されている」(加藤, 2005: 974)のである。これについては、ミルトン・ダイアモンドによる特別寄稿「現代日本文化の中の伝統主義者VS.フェミニスト: <自然VS.相互作用>論争とその社会的意味づけ」(現代性教育研究月報 2006年1月号: 1-5)なども参照されたい。

(28) BBC「マネー博士とペニスのない少年」(Dr Money and the Boy with No Penis)2004年
https://www.bbc.co.uk/sn/tvradio/programmes/horizon/drmoneyprog_summary.shtml 。

(29) 波多野(1980a)によれば、カーケンダールほど強い反戦思想の持ち主もめずらしく、彼にとって性教育と平和運動は同じ土俵にあるものだったという。

【引用文献】
〈日本語文献〉50音順
・ 赤川学(1995)「オナニーの社会史」『ソシオロゴス』(19): 1-19.
・ 赤川学(2020)「性の科学(セクソロジー)」.大澤真幸・吉見俊哉・鷲田清一(編)『現代社会学事典』弘文堂: 769.
・ 朝山新一(1949)『現代学生の性行動』臼井書房.
・ 朝山新一(1954)「訳者の序」.朝山新一・石田周三・柘植秀臣・南博訳『キンゼイ報告 女性篇:人間女性における性行動』コスモポリタン社: 9-12.
・ 朝山新一(1967)『性教育―教師と両親のためのテキスト』中央公論社.
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JASE e-booklet朝山新一の性科学と性教育

第1章 世界のセクソロジーにおける朝山新一の位置