
資料
『性の署名』訳者あとがき(全文転載)
マネー、タッカー著『性の署名』の日本版は朝山新一が翻訳出版を企画するも、急逝により息子夫妻がその遺志を継いで翻訳出版を遂げた。その巻末に収録された「訳者あとがき」には朝山耿吉氏による日本版翻訳出版の経緯が詳細に記されている。朝山の最後の仕事の様子をうかがい知ることができる貴重な記録である。朝山春江氏と発行元・人文書院には、本ブックレットに「訳者あとがき」を転載することをご快諾いただき、ここに全文を転載する。
訳者あとがき
著者ジョン・マネー博士は、一九二一年ニュージーランドに生まれた。当地ウェリントンのヴィクトリア大学で哲学・心理学および教育学を専攻、修士課程を終了後、ダニーディンのオタゴ大学に勤務するかたわら、後のノーベル賞受賞学者ジョン・エクルズのもとで神経生理学を学んだ。その間に、文化人類学者である恩師アーネスト・ビーグルホール(エール大卒)の影響を受け、一九四七年、二六歳のときに博士号取得を目的にアメリカ移住を決意する。
脳と心理学との密接な関連に注目していたマネー博士は、アメリカに渡って一年間、ピッツバーグ大学精神医学研究所に在籍した後、ハーバード大学で医学心理学を学び、とくに半陰陽の心理内分泌学からそれに関連する遺伝学、内分泌学、性科学と広範な研究分野を対象にして、学問領域を広げた。
一九五一年、ハーバードを卒業後、世界で最初に小児内分泌学を確立したといわれるローソン・ウィルキンス (Lawson Wilkins) の要請を受けて、ジョンズ・ホプキンス大学に移り、ここで世界で初めての小児心理内分泌学の開拓者として記録される栄誉を得た。
現在、マネー博士は、同大学医学部と付属病院に勤務しており、精神医学・行動科学部の医学心理学教授と、小児科の準教授を兼任している。また同時に、同大学病院の心理ホルモン研究部門の部長であるとともに、性自認委員会・診療所の委員長でもある。
マネー博士の心理内分泌学と性科学の分野における業績は、国際的にも高い評価と注目を受けており、また、「性自認」(ジェンダー・アイデンティテイ)と「性役割」(ジェンダー・ロール)という概念を最初に明確に提示したことは、ことに性科学の領域全般に対して重大な衝撃をもたらすことになった。一方、新生児の性器の欠陥から成人の変性者の性の再判定に至るまでの、性に関する科学(ジェンダー・サイエンス)の研究と治療の両面における専門家としての名声も国際的なものであり、アメリカ国内のみならず、他国においても客員教授として講義を要請されるなど、そのエネルギッシュな 活躍は多方面に影響を与えている。
マネー博士の主要な著書には、次のリストがあげられよう。
Psychologic Study of Man (1957)
Sex Research: New Developments (1965)
Sex Errors of the Body (1968)
Transexualism and Sex Reassignment (1969)
Man and Woman Boy and Girl (1972)
Contemporary Sexual Behavior (1973)
Handbook of Sexology (1977)
またその他に、発表された論文は約三〇〇余を数えるに至っている。
なお、日本においてはこれまでにも、マネー博士の論文や概念が、学術・教育関係の雑誌などに断片的に紹介されたことはあったが、まとまった著書として翻訳され出版されたのは、本書『性の署名』が最初のものである。
ところで、マネー博士は性(セックス)の代わりに性(ジェンダー)という言い方を広く用いているが、この点についてここで説明しておきたい。 “性”(セックス)とは出生前に分化する生物学的な性であり、実際には性器の解剖学的構造、生殖の仕組み、性行為など、つまり、身体的な部分やそれに関わる行動を指して言う。 一方、 “性”(ジェンダー)は出生後に分化する心理・社会的な性であり、いわば性(セックス)が先天的なものであるのに対して、 性(ジェンダー)は後天的に、身近の家族を通して加えられる社会要因によって作りあげられていくものである。たとえば変性者は、性(セックス)と性(ジェンダー)の 不一致に悩む人であり、性転換手術とは、性(セックス)を変えて、性(ジェンダー)を確立させることなのである。
また、最近になって広く用いられるようになってきた“性"(セクシュアリティ)という言い方もある。これはいわば性(セックス)と 性(ジェンダー)がからみあって複雑で多様な現われ方をする人間の性の特質を、人間生活の不可欠な部分として、そして親子関係や同性・異性との人間関係などの人格的なふれあいをも含むものとして、総合的にとらえようとする用語である。
なお、本書の共同執筆者であるパトリシア・タッカー氏は、女性のフリーランス・ジャーナリストであり、大学では法学と科学を専攻した。現在では、『タイム』『スミソニアン』『アメリカ・イラストレーティッド』『エンサイクロペディア・ブリタニカ年鑑』に寄稿している。マネー博士がタッカー氏を共同執筆者に選んだ理由は、本書が一般の読者を対象としたものであるために、女性の側からの観点を導入することにより、本書の主旨である“男と女の意味” をより公平に問うことを期したところにあり、また、彼女にそれを裏づけるだけの社会問題と科学に関する基礎知識と思想、および優れたジャーナリズム感覚と表現力が備っていたからだと考えられる。実際に、本書を脱稿するまでには、マネー博士とタッカー氏の間で長期にわたってディスカッションが交わされたことが知らされている。
さて、ここで読者の方々に本書が日本版として翻訳され、出版されるに至った経緯についてお知らせするとともに、あわせて寛大なご了承をいただかなければならない。
本書の主翻訳者である父・朝山新一は、《人間の性》に関する研究分野の多くの部分を同じくするマネー博士の業績に注目し、同時に自分自身の主張するところを真正面から受けとめてくれる知己として敬愛していた。一九七五年に本書がアメリカで出版されるとすぐに、一般読者を対象とする科学書としての内容から、日本においても広く読者に供することを強く願い、翻訳出版の構想を抱いていたようである。マネー博士がタッカー氏を共同執筆者として選んだ意図と同様に、父もまた女性の共同翻訳者として、私の妻・春江を選んだ。二人は翻訳のための検討を重ね、専門用語や概念・論理構成などを春江に学習させた後に、第一章を下訳したうえで、翻訳の完成を確信し、マネー博士に日本における出版に関する了解をとりつけた。幸いにも、出版にはリスクの多いこの種の図書の刊行を人文書院に勇断していただけたのは、一九七八年十月であった。父はその直後十月二十五日からローマで開催された「第三回国際性医学会議 (International Congress of Medical Sexology)」に出席して研究成果を発表したが、そのおり同様に出席していたマネー博士との再会を楽しみながら、翻訳のための諸々の考え方に関する調整を行なった、ということである。十一月四日に帰国し、再度私どもと打ち合わせを行なった、同六日、身体の不調を感じて入院したが、そのときに人文書院編集スタッフの堀田珠子氏にマネー博士の意向を伝え、出版に対する期待をともに語りあったようである。翌七日午前〇時十分、心筋梗塞で急逝、七十年間の人生を終えた。
以上のような経緯から、本書の翻訳は、全体を通して下訳を妻・春江が行ない、その後私ども二人で検討しながら、いろいろな方々のご指導とご助力を得て完成したものであり、父の最終的な監修を経てはいない。そのために、父の論文はもとより、その他の関係論文も入手できるものは目を通し、また当然のことながら、本書の基礎となっている “Man and Woman Boy and Girl” およびマネー博士の諸論文についても可能なかぎり検討し、マネー博士の意向の確認をも幾度か書簡によって行なっている。
しかしそれでも、アメリカでも新しく造られたばかりの語句や概念があり、一方では、日本との歴史文化、風俗習慣、社会体制とその成熟度などの相違からくる翻訳上の困難に、何度も直面し困惑することも多かったが、あえて、読者の方々のご批判とご叱責を恐れずに世に問うことを決意するに至った。
その最も大きな理由は、父が人間の性行動に関する調査とそれに基づく論説を一九四七年に発表して以来、継続的に行なってきた研究の最終の成果である『日本の学生の《性》(セクシュアリティ)--その現状と将来の動向』(第三回国際性医学会議で発表)の結論の一部に示されている次のような表現の本質的な意義を、私もかねてより重要視していたからである。
「……これまでの統計調査を縦断的に比較考察すると、日本の若者の性行動の型が急速に西欧化されてきていることは紛れもない。 明らかにこのような傾向は将来、ますます促進されるだろう。そしていずれは、現在の欧米社会が当面している、若者の性にかかわるさまざまの困難な問題の解決を迫られる時が、われわれにもやって来るだろう。......すなわち、日本の若者の《性》の現状は、人道主義的な見解にたった、適切な教育的および政治的な啓蒙活動の推進を緊急の問題として、われわれに課しているのである。」
なお晩年の父は、近年のアメリカにおけるすさまじいばかりの“学際的”(インターディシプリナリー)な人間の性に関する研究の成果を賛嘆する反面、これに対する日本の現状の貧困を常々嘆いており、切迫した気持を抱いていた。それと同時に、本書にみられるように、多領域にわたる科学を動員した、一般読者を対象とする啓蒙的で優れた著書をものすることのできない自らの非力をも深刻に認めていたようである。死の間際に至るまで本書の刊行に心を砕いていたのを、アメリカの優れた指導者の力を借りてまでも、私たちとその子孫のための現況の打開を、少しでも前に進めることができればと願っていた、と見るのは息子の感傷にすぎるであろうか。
最後に本書の刊行にあたり、ご激励とご指導とご助力を、終始私ども夫婦にお与えくださった次の方々に、ここに心よりの感謝を申し述べたいと思う。
・専門家でもなく、翻訳力においても未知である私どもに、「あらゆる援助を約束する」として快諾してゆだねてくださり、あらゆるご指導をいただいたジョン・マネー博士。
・翻訳上の質問に懇切丁寧にお答えくださったサミュエル・コールマン博士(ジョンズ・ホプキンス大学人口問題センター)。
・原文の解釈やアメリカの慣習などに対する示唆を惜しみなくご教示くださったトーマス・I・エリオット氏(株式会社ダイナワード代表)。
・とくに生物学に関して、各所の問題の理解にご助力くださった、父が常に尊敬していた同僚でもある古沢満氏(大阪市立大学理学部助教授)。
・本書のカバー等のデザインに対して、私の法外な希望を快く引き受けてくださった、注目すべきクリエイターの馬淵晃氏。
・本書の刊行を決断してくださった人文書院と、常に誠意と忍耐と理解をもって推進してくださった堀田珠子氏。
そして愛する妻・春江にも。
一九七九年十月
朝山耿吉
【文献】
ジョン・マネー/パトリシア・タッカー著, 朝山新一/朝山春江・耿吉訳, 1979,『性の署名』人文書院.